世界に一つ!加東遺産の概要

更新日:2019年10月20日

安国寺と足利義教の首塚

安国寺と足利義教の首塚

 安国寺は、内乱による死者の鎮魂・追善や国家安全を目的として将軍足利尊氏・直義の兄弟が、夢窓国師(むそうこくし)の勧めによって、一国一寺、全国60余州に建立しようとした寺院です。
  東渓山安国寺は固山一鞏(こさんいちきょう)を開祖として、暦応2年(1339)に東条川を見下ろす新定の高台に建立されたと伝え、現在の本堂は、明治29年(1896)に再建されました。
  本寺には有名な逸話が残されています。かつては良好な関係にあった播磨守護赤松満祐(みつすけ)と将軍足利義教(よしのり)との関係が悪化し、嘉吉元年(1441)に嘉吉の乱が起こります。赤松満祐一行は、足利義教を殺害し、その首を携えて播磨に下国し、当寺で盛大な法要を営みました。そののち、足利家菩提寺である京都の等持院で葬儀が営まれています。
  本堂の裏手に祀られ「義教の首塚」と呼ばれている宝篋印塔(市)は、総高約170センチメートルで完全な形で残されており、紀年銘はありませんが室町時代中頃の形態をよく留めています。嘉吉の乱からそう年月を経ずして、供養を目的として建立されたものとされています。

上鴨川住吉神社と神事舞

上鴨川住吉神社と神事舞

 上鴨川住吉神社には、本殿(重文)・拝殿・舞殿(舞堂)・長床・御供部屋・小宮などの建物群が境内(市史跡)に建立されています。本殿は棟札から正和5年(1316)に創建、現在の本殿は明応2年(1493)に再建されました。なお、昭和45年(1970)に解体修理が行われています。
  境内では五穀豊穣・無病息災を祈願して、毎年10月第一土曜・日曜日に神事舞(国無形民俗)が奉納されます。
  神事舞は、宮座組織によって鎌倉時代の形態を厳格に留め、継承されており、中世の面影を体感できる貴重な舞踊として、全国的に知られています。
  神主の祝詞で宵宮が始まり、宮巡り、斎灯、神主・禰宜・清座による割拝殿での神楽の後、リョンサン舞・獅子舞・田楽七番・イリ舞が演じられ、願済で行事を終えます。本宮も神主の祝詞、盃ごとの後に、リョンサン舞・獅子舞・田楽・イリ舞・高足、そして翁舞・父尉・ミコの舞が演舞された後、祇園座による子供相撲が奉納されます。

観音寺と赤穂義士菩提所

観音寺と赤穂義士菩提所

 赤穂義士で有名な赤穂藩浅野家は、元禄14年(1701)江戸城松の廊下の刃傷事件で断絶しますが、家原浅野家は、寛文11年(1671)に浅野長賢(ながかた)に分知され、家原に陣屋を置く3500石の旗本として幕末を迎えます。
  大悲山観音寺は、十一面観音菩薩立像を本尊とし、貞享3年(1686)に開基され、元禄12年(1699)には本堂が建立されました。
  弘化4年(1847)浅野長祚(ながよし)の時、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の石碑を中心に大石良雄ら四十七士の石碑がこれを取り巻く形で祀られた菩提所(市史跡)が、現在の加東市域のみならず、小野市、加西市、丹波市域の人々の寄進によって建立されました。
  その後、「義士会」が結成され、現在も12月14日に続けられている義士祭は、当時を偲んで多くの参拝者でにぎわっており、北播磨一円の義士顕彰の拠り所となっています。

清水寺と巡礼

清水寺と巡礼

 清水寺は、播磨の北東部、標高約542mの御嶽山にある天台宗の寺院です。平安時代後期に書かれた『今昔物語集』には「播磨国の東北に霊験あらたかな霊峰がある・・・」としてすでに紹介されています。また、西国三十三所観音霊場のうち西国二十五番札所として、現在も巡礼の人々が後を絶ちません。
  清水寺へは「五谷五道」と呼ばれる参詣道があるほか、市内一円に参詣を助ける道標が点在しており、いかに多くの人々が巡礼に訪れていたかを示しています。巡礼に訪れた甲州の肥谷井角右衛門が地域の人々の温情に触れた旨を記した道標(市)は、西坂の山裾にあります。なお、西坂の北には京街道(丹波道)が延び、上鴨川には市内では貴重となった猪垣などが昔の姿を留めています。
  清水寺には、武田五一の設計による大講堂をはじめとした伽藍(国登録)が再建されています。また、平安時代の大刀(重文)、白鳳仏である銅造菩薩立像・中世の地域史を雄弁に語る清水寺文書(県)、木造十一面観音菩薩立像・木造吉祥天立像・木造毘沙門天立像・『瑞柳院旧記』(市)があるほか、5月にはクリンソウ(市天然)の華麗な花が見頃をむかえます。

光明寺

光明寺

 中国山地への起点となる山塊に法道仙人の開創と伝えられています五峰山光明寺の伽藍は広がっています。
  観応2年(1351)、足利尊氏(たかうじ)とその弟直義(ただよし)が対立した光明寺合戦は『太平記』に記載されていますし、文明17年(1485)赤松政則(まさのり)と山名政豊(まさとよ)の戦いでは光明寺の3院21坊が宿坊として割り当てられており、幾多の争いの場でもありました。
  多聞院・遍照院・大慈院・花蔵院という塔頭が並び、山門を入ると、文殊堂・鎮守社、常行堂、さらに階段を上ると大正14年(1925)に再建された入母屋造り銅板葺きの本堂(国登録)が目の前に迫ってきます。
  そのほか、平安時代後期の銅造如来坐像(重文)、一幅善導大師画像(市)などの文化財が残されています。
  また、本堂の傍には釈迦如来立像と地蔵菩薩立像の二尊が祀られ、花祭り(仏生会)には多くの人々が参拝されています。
  紅葉の名所としても知られるほか、シイの原生林が広がり、日々の散策・ハイキング・森林浴の場として生活に密着した良好なエリアでもあります。

佐保神社

佐保神社

 佐保神社は、鎌倉峰(加西市)に降臨した大明神が由羅野(ゆらの)にうつり、宮が建てられたことに始まるとされ、旧加東郡随一の大社で、承元4年(1210)にはすでに播磨有数の神社として知られていたといいます。 この神社にちなむ「佐保社郷」という荘園名から「やしろ」の名が起こり、鳥居地区の石鳥居にかつての社域をとどめています。
  随身像が見守る楼門造りの山門をぬけると広い境内が開け、正面に本殿・拝殿、手水舎・舞台・行者堂などがあります。
  当社の文化財には、元禄12年(1699)の高札(市)や、永禄12年(1569)銘の随身像、天文4年(1535)銘の楽太鼓などがあります。
  なお、毎年10月の体育の日の前日に屋台・獅子舞などが奉納される秋祭りは、北播磨有数の規模で、多くの人々が参詣され、にぎわいをみせています。

朝光寺と鬼追踊

朝光寺と鬼追踊

 朝光寺は、白雉2年(651)法道仙人開創の寺とされ、文治5年(1189)境内北側の権現山から現在の地に移ったと伝えられています。事実、山上には平安時代末期には寺院が建立されており、近世に至っても修験の場がありました。
  本堂(国宝)は、室町時代初期を代表する典型的な和様・唐様の折衷様の建物で、応永20年(1413)に建立されたことが、宮殿羽目板の墨書銘に残されています。昭和の修理を経たとはいえ、かつての面影を現在に伝えています。
  本尊は平安時代後期の木造千手観音立像(県)と鎌倉時代後期の木造千手観音立像(重文)があり、後者は京都蓮華王院(三十三間堂)から移されたものです。境内には鐘楼(重文)、多宝塔(県)、仁王門(市)などの建造物のほか、応永34年(1427)銘の五輪塔(市)・宝徳2年(1450)銘の六面石幢(市)などの石造遺品を見ることができます。
  5月5日に披露される鬼追踊(県無形民俗)は、かつては「般若踊」として『和漢三才図絵』に紹介されるなど、古来より広く知られています。
  そのほか、ツクバネ(市天然記念物)、朝光寺川の流れが瀑布を造るつくばねの滝など、文化財や名勝が密集したエリアであることも魅力の一つであるといえましょう。

東条湖と秋津富士

東条湖と秋津富士

 清水東条湖県立自然公園に位置する東条湖は、鴨川を堰き止め、昭和26年(1951)戦後国営第一号のコンクリ−トダムとして建設されました。
  屏風岩・五所ヶ渓谷・鷲の巣窟・蓬莱峡・鞍馬峡・妹背岩・不動岩・水天宮という東条湖八景という景観が湖上に誕生し、現在ではルアーフィッシングの良所として定着しています。湖面ではボート遊び、近接してレジャー施設があり、近畿圏におけるレジャー拠点のひとつとなっています。
  また、背景には「秋津富士」と呼ばれ、東条地域の人々に親しまれている標高320メートルの小高い山があります。登山道が整備されて以来、手軽な散策の地として端鹿の里や六甲山系などの眺望を楽しむことができます。
  なお、山頂には秋津3号墳(市史跡)という6世紀後半頃に築かれた横穴式石室の円墳がほぼ完全に残っています。

闘竜灘と鮎漁

闘竜灘と鮎漁

 加古川は、加東市域のみならず流域に暮らすすべての人々を育み、暮らしを支えてきたといえます。
  闘竜灘は、流紋岩質凝灰岩が加古川の河底一面に広がり、奇岩・瀑布が形造られた名勝として、古来より知られています。
  文禄3年(1594)以来、阿江与助らによって、舟道が整備され、高瀬舟による加古川の舟運が始まりますが、闘竜灘ではどうしても荷物を積み降ろしをする必要があり、その周辺の河岸には舟問屋・宿屋などが建ち並んでいました。
  また、闘竜灘の地形や鮎の習性を利用した「筧漁」(かけいりょう)は、筧(木樋)によって流水を引き込み、人工の滝を作り、この滝を昇ろうとする鮎を仕掛けの穴へ落とし込む漁法で、江戸時代より継承されています。
  現在、闘竜灘では5月1日、全国に先駆けて鮎漁が解禁され、太公望が期待を胸に竿を垂れるとともに、この「筧漁」も始まります。

三草山と丹波道

三草山と丹波道

 三草山は、加東市の北東部に広がる山塊の最高峰にあたり、その西側を北東から南西に延びる谷間には京都と姫路を結ぶ最短ル−トである国道372号線が通っています。このル−トはかつて丹波道と呼ばれ、大変重要な交通路でした。
  寿永3年(1184)源義経が平家軍と戦った三草合戦のとき、義経はこの丹波道を通って京都から小野原(丹波篠山市今田町)に着陣し、山口(加東市)に陣を敷いた平家軍に夜討ちをかけて破ったと『平家物語』は伝えています。
  馬瀬の国道沿いにある弁慶の力石、下三草薬師堂にある五輪塔群など、三草合戦にまつわる伝説も数多く残っています。それらはこの合戦が地域の人々の心に深く刻まれた証であり、私たちが未来に伝えていくべき大切な宝であります。
  また、建武3年(1336)足利尊氏が京都から播磨に敗走したとき、観応2年(1351)の光明寺合戦で滝野に入った石塔頼房(いしどうよりふさ)も、さらには天正10年(1582)本能寺の変が起こったとき、姫路にいた羽柴秀吉は京都との二度の往復にこのル−トを使用するなど、丹波道の重要性は時代を経ても変わっていません。
  現在は登山道が整備され、地域住民の健康・体力造りに一役買っています。

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