三草藩武家屋敷旧尾崎家

更新日:2019年02月19日

三草藩武家屋敷旧尾崎家

三草藩武家屋敷旧尾崎家について

読み方(ふりがな)

みくさはんぶけやしききゅうおざきけ

員数

1棟

指定内容

建造物

指定記号

所有者

加東市

所在地

加東市上三草1157

指定年月日

1993年(平成5年)4月27日

規模または寸法

敷地面積513平方メートル

母屋面積約141平方メートル

納屋(なや)(展示室)1階面積40平方メートル、2階面積23平方メートル

物置面積約6平方メートル

井戸端覆屋(いどばたおおいや)面積約6平方メートル

制作年代

18世紀後半

公開・非公開について

公開しています。

その他

(三草藩と武家屋敷)

江戸時代中期の1742年{寛保(かんほ)2年}、越後国高柳1万石の藩主であった丹羽薫氏(にわしげうじ)は加東・加西・多可・美嚢郡(みのうぐん)(村数33ヶ所)へと所領が変わり、禄高(ろくだか)1万石の譜代(ふだい)大名である三草藩(みくさはん)が成立しました。

1746年{延享(えんきょう)3年}、上三草(かみみくさ)に陣屋(じんや)を構え、周辺には「お小屋(こや)」と称する武家屋敷をはじめ、徒士(かち)長屋、足軽(あしがる)長屋のほか、和銅(わどう)稲荷社などを配置しました。

三草藩は、藩主が参勤交代(さんきんこうたい)をせず、江戸に常駐している定府(じょうふ)の大名であったため、武家屋敷は藩主が時折、お国入り(おくにいり)した際に利用する宿舎や、藩の国元詰め(くにもとづめ)の役人の住居として使われました。

しかしながら、現在では、この陣屋跡周辺には稲荷社とわずかな武家屋敷群を残すだけとなりました。

(旧尾崎家住宅)

尾崎家は幕末時に藩の大目付(おおめつけ)として活躍した30石取りの藩士、尾崎弥一郎(おざきやいちろう)の後裔(こうえい)です。

旧尾崎家住宅は一部に造築が施されていますが、大きく改変されることなく、正面の式台(しきだい)まわりなどに当初のままの武家屋敷の構えが良く残っています。また、屋敷門(表、裏)、土塀(どべい)、納屋(なや)、井戸端(いどばた)、その他の附属屋からも江戸時代末期の武家生活を偲ぶことができます。

旧尾崎住宅の母屋は、寄棟造(よせむねづくり)の平屋建(ひらやだて)、屋根は桟瓦葺(さんがわらぶき)です。正面には式台(しきだい)が設けられ、式台(しきだい)をあがると「玄関の間」があり、その上手(かみて)に整形4室が配され、表側2室が「次の間」と「奥の間」、裏側2室が居間(いま)と納戸(なんど)になっています。「奥の間」は床(とこ)、違い棚、戸袋がつき、南側と西側の両面には縁側(えんがわ)がまわされて良く整った和室の間を構成しています。狭い表土間(おもてどま)の奥には炊事場(すいじば)があり、台所(板間)に接して「かまど」、その下手(しもて)に「流し」と「風呂場」が設けられています。東南部の仲間(ちゅうげん)部屋には格子(こうし)窓が設けられており、式台(しきだい)とあわせて、武家屋敷としての風格を残しています。

母屋や附属屋{表門、裏門、土塀(どべい)、納屋(なや)、井戸端覆屋(いどばたおおいや)など}、庭石、植栽(しょくさい)を織り込んだ庭園を含める一連の屋敷構えは、当時の武家生活の一端を現在に伝えてくれる貴重な遺構です。

地図情報

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